「神様のカルテ」レビュー

  あゆみがレンタルしてきた「神様のカルテ」という映画を見た。

 

 高度にシステム化され続けていく大学病院と、人手不足を自転車操業でしのぐ地方医療の現実。そこには学会(医局)の持つ権威主義と、現場主義との間で生じる確執の問題が描かれていた。

「さて、あなたならどちらを取る?」という問いかけが、この映画の根底にある。

そこに答えを出し切れずに悩む主人公側の人々と、割り切ってしまった人達との対比で、物語は進んでいく。

しかし、この映画の残念なところは、この問いかけに対して、答えありきであることが隠しきれていないところだろう。

 

 「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!」

と迫力満点で叫んだのは、踊る大捜査線の青島刑事。

これは、爽快かつ明解な論理だが、青島刑事の魅力はそれを現場の中だけでクローズさせなかったことにある。

自分たちの現場のルールを、相手の会議室の中にまで持ち込んで、メッタ斬りにする。

そんなチャンバラ喜劇で、あの映画は答えを出していたのだと思う。

 

 しかし、「神様のカルテ」では、何も起きずに終わってしまった。

起きていたのかもしれないけれど、クローズしている世界の出来事は、何も起きていないのと同じことになる。結局、誰も何も変わらないというのが結論になる。

ただ、そこに時間だけが、無為に過ぎ去っていくという切なさだけが、この映画の後味として残る。

ただ、一つだけ変化したことがあった。

末期癌患者であった女性の一生だ。

その「人生の最後」を、審判することとなった、最後のカルテ。

作者は、これを「神様のカルテ」と呼んだのかもしれない。

そして、この神様とは、自分達のすぐ身近にいる人達であった。

現場の人達が、一人の癌患者の神様となったのだと思う。

 

 ここでもう一つ、「阿弥陀堂だより」という映画についても触れておきたい。

実は、この映画も同様に、都市と地方、エリート医療と地方現場の医療というものを、

同じく信州の大自然を舞台に描いている。

そして、この映画の特徴は、そこに流れている時間がゆったりとしていることにある。

映画のロケは、同じ場所で一年を通して続けられ、季節毎の自然の美しさをふんだんに取り込んだ。

その時間の流れは、「神様のカルテ」よりも、数倍遅い。

そして、数倍の濃密さを持っている。

そこに登場する人の誰もが、自分の人生の歩みを、一歩一歩踏みしめるように進んでいくように思えた。

そこには、「答えありき」ではない人生の、真実が伝わってくる。

一つ一つの丁寧な動作にあらわれる、一日の過ごし方。

それが長く積み重なることによって、「答え」のようなものが生まれる。

結局、辿りついた「答え」とは、どちらの映画も同じようなものなのかもしれない。

それでも、自然と導かれるように帰着した「阿弥陀堂だより」にはリアリズムがあった。

リアリズムの中に答えがあるのではなく、答えそのものがリアリズムである。

そう考えさせられる映画であったと思う。

青島刑事だったら、こう叫んでいたかもしれない。

「答えは正しさや真実の中にあるんじゃない!

 答えはリアリズムの中から生まれるんだ!」