「石巻そして四国①」葦の土地

 小さな日和山を越して門脇地区に降り立つと、そこには枯れた葦原が一面に広がっている。背丈を超すほどによく茂った葦原の中には、アスファルトの狭い道路だけが、格子状に走っている。葦原の中に入ってよく見ると、かつてブロック塀だったと思われる基礎だけが残っている。奥には庭だったと思われる場所があり、庭石だったと思われる大きな石が、半分泥に埋もれてそのまま取り残されている。家の間取り図のように残った土台が、地面にへばりついている。遠くを見渡すと、夕暮れの曇り空に製紙工場の煙突が何本も伸びて、灰色の煙が大量に吐き出されていた。

 風は冷たく、海に向かって容赦なく吹き抜けていく。海岸と平行して走る産業道路には、近隣の工場から帰宅しようとする車の赤いテールランプが、列をなして並んでいた。それは、渡る人もいない交差点の赤信号を先頭に、無意味な渋滞が始まろうとしているところだった。

 

 震災の地、というものを訪れるのは初めてだった。そして、明日は311日。仙台まで来たついでに、そのまま足を延ばし石巻にまでやって来た。駅前の観光案内所に向かって、これからでも泊めてもらえそうな宿を探してもらった。目の粗いアスファルトの歩道の上を、キャスターケースをゴロゴロと引きずりながら市街地までを抜けて、まずは宿へと向う。荷物を宿に預けて、暗くなる前に日和山に向かって宿を出た。山といっても10分足らずで登れる丘のような場所だったが、そこからは市内が一望できる見晴らし台もあった。山頂の駐車場には、パラボラアンテナを積んだテレビ局の衛星中継車が、明日の報道の準備のためにリハーサルをしていた。こんな時間に誰もいないだろうと思っていただけに少し驚き、そして震災日前日という緊張感が駆け抜けた。眼下には枯れた葦の原っぱが広がっている。

 

 満月に近い月が、雲の合間で色を濃くし始めていた。ここに町が再び甦ることはない。ここは更地にされ、嵩上げされて、最後は記念公園になるのだと土地の人は言う。私は葦原の中を門脇地区から南浜地区へと向かって歩いた。風は冷たい。手を出しているだけで凍ってしまいそうに痛い。ポケットの中に手を押し込んで、指先を強く握って拳を作った。

 この辺り一帯は全て流されてしまったという。山裾にあった小さな小学校にも、大量の瓦礫が海とともに押し寄せ、燃えながら流れ着いた一軒の家によって小学校も全焼した。幸い児童たちは裏山に避難していたおかげで全員無事だったが、この小学校も間もなく解体されるらしい。黒焦げになった小学校が、全面防護ネットに包まれて最後のときを待っているようだった。それは殯のときでもあった。

 東京にいて震災関連のニュースを見るのと、東北でそのニュースを見るのとでは、同じニュースであっても受け止める感覚はまるっきり違うのだと知った。同様に、ここから知り得る豊洲の問題や、森友学園のニュースというのは、どこか空々しく速報性ばかりを押し付けられているような気がする。人間の作為的な厭らしさだけが、自分の周りにまとわり着ているようだった。

 土地の上に立つということは、そこから直接伝わってくる感覚というものを信じ、そこには見えないものが見え、感じられないものが感じられるようなことかもしれない。 私はカメラのシャッターを夢中で切り続けた。葦の原に浮かぶ白い月。海にたなびく工場から煙。それら自分とは全く関係のないものによって、自分の存在がそこに記録されていくことに、不思議な錯覚を感じた。それらを撮影するという行為が、私が今ここにいるという目的を生み出していた。陽が完全に落ちるまでほんのわずかな時間であったろう。私は今、なぜここに立っているのか。なぜここに来たのか。それはもはや分らなくない。ただ、風は冷たく、枯れた葦が揺れ出す音だけが耳に聞こえていた。この足元の下に、すべてを覆い隠している葦の下に、人の営みの破片が今も埋もれている。