差別と平等
言葉にはイメージが伴う。たとえば差別は×で平等は〇である。
差別をなくすことで平等に近づけるというのは、言葉の理論(理屈)である。
現代では、「平等な社会を築くために、差別を撤廃しましょう」と言われる。
それは差別が、平等な社会を築くときの障害と考えているからだ。
はたしてそれは正しいのだろうか?
差別と平等はそのように対極するものだろうか?
むしろ、それは同じものであるような気がする。
西欧の中世では、魔女狩りというものがあった。
現代から見れば、それは意図的に魔女を作り出すことで、
無理やり平等な社会を演出していたようにも捉えることができる。
もっと言うならば、「平等な社会を築くために、差別をして悪いものを見つけましょう」
ともとれる。
差別を作ってまでも、求めようとする平等社会とは何だったのだろう?
ユートピア幻想。
自然の中に不平等は存在する。
いや、むしろ自然とは不均一さを指すものだろう。
それなのに、人間は平等(均一)を好む。
山を削って谷を埋めるように、自然界を均一な世界に変えようとする。
人間の社会も同じで、マジョリティだけの均一な社会を作ろうとしている。
マイノリティを排除することは、自然破壊する行為と似ている。
「平等」の名の元に、「劣等狩り」が行われているようなものではないか。
その「平等」の流れに抵抗するように生まれてきた言葉が、「差別」と考えてみる。
マイノリティは、「被差別者」という言葉を盾として、身を守る。
「差別することは悪いこと」という論理は、そのまま「平等を振りかざすことは悪いこと」として置き換えられる。
それを象徴するかのように、最近、新聞紙上で「性同一性障害」に関する記事をよく目にする。
似たような傾向にある、「同性愛者」は障害とは呼ばれないし、そう呼ばれることも望んでいない。
同性愛は、一つの嗜好であって、病気でも障害でもないと考えているからだ。
しかし、性同一性障害は病気であると考えられている。
病気とか障害というのは、本人がその状態を望んでいない、治したいという要素を含んでいるからだ。
多くの身体障碍者や精神障碍者が、周囲にそれを知られたくない、伏せたいという傾向を持っているのに対して、
性同一性障害の特徴として、他人へのアピールを好むというらしい。
それがカミングアウトと呼ばれる、一つの症状と考えられている。
カミングアウトの目的は、「差別されたくない」という欲求が根底にあるのではないかと私は思う。
そのため、自分がいかに多くの差別を受けているかをアピールする。
健常者、マジョリティの中でも差別はある。それも決して少なくはない。
しかし、それは「差別」とは呼ばれない。
個人的な能力の「劣等」であるとか、当人が持っている問題と見られるからだ。
心理学的には、人は他人との「不平等」に対して強い嫌悪を抱き、ストレスが生じるとされる。
例えば、狩猟の分け前が均等で無い場合それに強い不満を持ち、攻撃的な復讐にも変わるといわれる。
そうやって、人類は昔から不平等の問題と戦ってきたといえる。
戦争も宗教も、全てそこに端を発している。
どうやら、ここまで書いても結論は出ないし、収束しそうにもない。
ただ、言えるのは、平等とか差別という言葉の理屈に踊らされないこと。
ユートピアを描かないこと。
現実とは、不均一で人それぞればらばらであることが自然な状態であり、
それを尊重するでもなく、悲観するでもなく、目の前の世界だけが現実であると考える。
スモール世界観、目の前の一瞬だけに集中する生き方が必要なのではないだろうか。